bt 1-2

美術手帳 バックミンスター・フラー特集

バックミンスター・フラーすべてを語る」前半まとめ vol.2


3.フラーの「建築」と「環境」

フラーはいわゆる「建築家」の建てる建築”Architecture”を「飼いならされて条件反射的になった行動様式と美的価値」に基づいたものであり、「陸の人間は相も変わらず<固定的な発想>で石を積み上げ、巨大なピラミッドのような建築をつくっている」と批判した。

「『建築』という言葉には、要求にかなった包括的で適切な予見的なデザインによる道具とすべての人に進歩的で最も高い利益と満足をもたらすための問題を解決することよりは人間を古典的な慣例に従って装飾的要素のみに限定して思考させる傾向があると感じていた。」(美術手帳 2002年2月号 )

これに対してフラーは自らの構築物を「建築」ではなく「環境デザイン」と呼ぶ。「環境デザイン」は建築における要塞のような外部と内部を絶縁するようなものではない。

「デザインサイエンスはそういったあらゆる出来事を<絶縁する>という手段で食い止めようとしない」  (美術手帳 2002年3月号 )

では、フラーの言う「環境」とは何だろうか?フラーのここでの言葉は相変わらず抽象的で分かりづらい。

「『環境』は私たちをとりまく無数の『物質』ではなく宇宙の『出来事』から成り立っている」(美術手帳 2002年2月号 )

フラーは宇宙は「超物質的な出来事の複合体であ」り、「出来事が各個人の外部と内部の両方から影響を与える」とし、「外部の大宇宙」と「小宇宙系の出来事」それぞれが人間の潜在意識に影響すると説く。

「物質的な宇宙は99%不可視、そして超物質的な宇宙は100%不過視。重要なことは不可視の領域で起きている」(美術手帳 2002年7月号 )

と言う言葉でも、フラーが彼のデザインを物質以外の部分に重点をいていたことは確認出来るだろう。

ここでの外部の大宇宙の超物質的な出来事とは一般に知られているように、太陽からのエネルギー放出と地球内での循環であることは分かる。
では、「小宇宙の出来事」とは一体なんだろうか?またそのような「出来事」が人間の潜在意識に影響するとは?そもそも、「出来事」とは一体何を差異s他言葉なのだろうか?

P.S.フラーのドームを「建築的」に評価することはどれほど有効だろうか?彼のエフェメラリゼーション(日本語に無理して訳すと非物質化)とフラードームの目指した先は、エネルギー的な循環も含めた非物質的な「出来事」を内外で循環させるフィルタのような存在だった。これに対して物理的視覚的な広がりを前提とした「空間」と言う概念を使うことは(もちろん可能だとしても)フラーに対して、あまりフェアな対応とは言えないように思う。もう少し「建築」に対して、異なるアプローチを持つ評価指標(数値的な評価と言う意味ではなく)を掲示出来れば面白くなるかも

bt 1

美術手帳 バックミンスター・フラー特集
バックミンスター・フラーすべてを語る」前半まとめ vol.1



現在、おさらいも兼ねて美術手帳のフラー特集記事のインタビューを読んでいる。全15回、各10ページの特集。 原文はArchitectural Design誌1972年12月号に掲載されたマイケル・ベネリによるインタビュー。

送ってくれた佐藤君、本当にどうもありがとう!

第7回まである程度読み進めたので、フラーが取っているスタンンスの基本事項を確認する意味でも、一度まとめた記事を書いておきたい。

本当は1回で簡単にまとめるつもりだったのだが、書いていくうちに長くなったので、取りあえず今まで書いたところをアップしてみる。長くなりすぎて、自分が何言ってるのか良く分からなくなってきた。(特に前半部分)今度から、書いたものを、簡潔にまとめてもう一度、流れを検討した上でアップした方が良いかも....長過ぎるのは読む側にも優しくないし。取りあえず今日は非常に眠いのでコレで勘弁...そのうち読みやすいように修正するかもしれません。

フラーの言説はいつも抽象的で、自分のプロジェクトを詳細に語ることは少ない。まさに「Think Globaly,act localy」の人である。また、その思想は非常にストレートなメッセージ性を含んでいる上に、その内容は現在のサスティナブルを巡る思想の概要に非常に近く、素直に読むだけではなかなかフラーの特殊性が見えてこない。そのため、フラーの言説は彼の作品やプロジェクト、あるいは歴史的、政治的コンテクストと常に比較して読む必要がある。


1.フラー的人間像

フラーは自然(宇宙)が環境に与える不可逆的な影響、エネルギーの無秩序な拡散(エントロピーの増大)に対して、生物の環境調整機能による環境の改善、増殖する秩序を「シントロピー」と名付け、対置させる。
その中で人間は「基本的な環境の変化に適切に意識的に関与することが出来る」存在として、原理を発見し秩序を生み出すシントロピックな知性ある監視役としての役割を与えられる。

この立ち位置はそれ以前の近代建築家や60年代にフラーと同じように有機的な構造からヒントを得たデザインを指向した日本のメタボリズムとは明らかに異なっている。

近代建築はそれまでの歴史主義的な建築の否定、コルビュジエの「住むための機械」に代表される機械のメタファーと技術を用い、それまでの歴史からの切断と新たな時代の「構築」を指向した。

それに対して、フラーは宇宙という一つの大きなシステムを崩壊と構築のサイクルとして捉え、その間にそれらを意識化し秩序を生み出すという人間を挟み込む世界観を掲示している。秩序を自ら構築するという点は非常に近代的な思想だと思うのだが、問題は、そこに「切断」はなく、宇宙に対する「関与」という非常に緩やかな関係を示す言葉で表現されていることである。

一方で、1960年代に活躍したメタボリズムの建築家達は、近代建築の機械的イメージの硬直性を指摘し、都市の急速な膨張と更新に対応する構造の必要性を訴えた。そこで、提出された解答は、古くなった細胞が新しい細胞と入れ替わるように更新されるユニットとそれを構造的機能的に支える巨大な構造物の複合体であった。この有機的都市イメージはその是非はともかくとして、建築が短いサイクルで更新され続けている東京を代表とする日本の都市のイメージとして、なお有効だと思う。

しかし、そこには都市が自律的な一つの系をなすと言う、ある意味でなお「近代的」な都市像がその背景にあった。メタボリズム建築のシステマティックな構成や動的なドローイングが、静的な近代建築のイメージを形成する以前の近代建築、未来派表現主義に類似した点をもっていることは恐らく偶然ではないだろう。また、有機的な要素の引用にしてみても、固定的な近代的な建築に如何に変化の要素を組み込むかということが主題にされており、技術的、原理的な部分まで追求されることはなかった。メタボリズム建築の代表作である「中銀カプセルタワービル」にしても、その形状やシステムは更新を前提にはしているものの、実際に各ユニットが交換されることはなかった。

それに対して、フラーが自然や宇宙にもとめたものは、そういった都市のイメージのような抽象的なものではなく、それらが持つ原理であり、建築や都市はその原理をうまく活用し自然と共存出来るかと言う点が強調される。だから、フラーの生み出した概念や発明品、技術には、自然や有機物の原理が応用されている一方で、それを現在の人類の技術で実現可能な「機械」としての側面を持っており、メタボリズムとは逆の意味での「自然」と「機械」二面性がある。


2.フラーの「成長」の概念

面白いのは、フラーの言うサスティナビリティーは、省エネや成長の限界といった限定された成長や禁欲的な概念に結びつかない点だと思う。確かに、フラーのドームは限定された空間を囲う固定的なものだったし、「宇宙船地球号」という言葉を生み出したのもフラーではあったのだが、一方で、フラーは自然の原理をうまく応用出来れば人口爆発のような急激な変化と成長にも対応可能であるとした。際限ない成長のイメージは先ほどのメタボリスト達と近い概念になるかも知れない。

しかし、注意すべきなのはメタボリスト達が使う(あるいは僕たちが普通の意味で使う)「成長」と言う言葉のニュアンスが若干異なっていることである。フラーは物質的な宇宙の中での不可視領域の重要性を説いている。球形ドームや地球の」ような閉ざされた空間内での「成長」とはつまるところこの「不可視領域」でのエネルギーのような現象的な側面であると考えた方が自然に思える。


閉ざされた物理空間内での爆発的な成長。その先には「過密」がある….ような気もする。

diary

近況


1.帰国予定
事務所が8月1日から3週間休みになることが判明。9月にインターン終えて旅行して帰る予定だったが帰国を少し早めようと思います。


2.荷物が届かない
日本から本とか家の鍵(マドリッドで盗まれた)なんかを送ってもらったのだけど、いっこうに届かない。一度パリまで来ていたみたいなのだが、「不在」ということで連絡も無いまま実家に送り返されていた....

もう一度送ってもらったのだが、今度は受け取ってもいないのに「受け取り済」ということになっているようだ。一体どこに行ったのだろうか?

久しぶりにラテン人のいい加減さに腹が立った


3.髪を伸ばしてみる
学生時代ずっと「超ショートヘア」でやってきたのだけど、ここに来て伸ばしてみる。
てか、パリに来て髪質変わった?
伸ばしてもクセがあまり気にならなくなった。といってもまだ2ヶ月くらいですが...


4.花火を見に行く
14日は、革命を記念する花火をエッフェル塔付近で打ち上げるとのことだったので、日本人建築学生連中で見に行ってきた。
知人は「フランスの花火なんて日本に比べて小さいし、人がいっぱいで面白くないよぉ」なんて言っていたのであまり期待していなかったが、なかなかどうして....
エッフェル塔120周年ということでいつもより盛大だったのかも知れない。塔が燃えているように見えるような演出もあったりなんかしてかなり見応えがあった。日本でも報道されていたようだ。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090715-OYT1T00788.htm?from=navlp

こんな都市の真ん中で花火を打ち上げられると言うのは、日本ではなかなか難しい
今年の夏は日本にいないので花火見れないなぁ...と思っていたけど、一足早く堪能させていただきました


5.2525
最近、某サイトの見過ぎで、家での作業が全然はかどらない。
今週はフラーのインタビューを書いてここにアップする予定だったのだが、まだ、前半の最初の部分しか書けていない。
今晩少し頑張ってみることにする。


早く書かないと、この良く分からんエントリーがブログのトップに曝され続けることになる。

と、自分自信に発破をかけてみる

in one image ....another

先週末、東工大の斉藤君とグラン・パレでやっている「in one image ....another」展を見に行く。英語の展覧会名は少し分かりにくいですが、一つのイメージの中に複数の意味を含んだアート作品の展示。

ホームページ(おお!回る!)
http://www.grandpalais.fr/fr/Accueil/p-93-Accueil.htm

入場料8ユーロと少々高めなのだけれど、
ピカソエッシャー、ダリ、マグリットマン・レイデュシャン、ピラネージ、ジュゼッペ・アルチンボルド(果物を寄せ集めて人物画を描いたイタリア人画家)、など有名作家の作品が多数来ていてかなり見応えのある内容。作品の制作年代や地域も中世〜現代、ヨーロッパを中心にインド、日本まで非常に幅が広い。
マニアックなところでは「リバイアサン」の挿絵なんかもありました。

ミュンヘンで見たディズニー展、ケルンの聖コロンバ教会美術館など、コンテクストを一度抜きにしておいて、ビジュアルイメージや部分的な視点が似通っているものを並べて後で解釈で「繋げてみる」タイプの展示が最近のヨーロッパでは流行っているように思う。中にはかなり無理矢理なものもあるけれど、作者の意図以上にキュレーターの人の思惑が垣間見れて、クリエイティビティーを刺激される。
「コレ」の次「コイツ」来たか(笑)のような良い裏切りがあったりして、そういう楽しみ方も出来る。

こういうタイプの展示は日本ではあまり見たことない気がするけれど、どうなんだろうか?
日本の場合、どうしても「日本対西洋」のような構図が出来上がってしまっていて、こういうランダムな繋がりはうまく機能しないのかも知れない。

それにしても「アンディー・ウォーホル展」といい、ここのナショナルギャラリーは見応えのある展示ばかりやってくれるナァ...

blade runner

ブレードランナー 最終版 [DVD]

ブレードランナー 最終版 [DVD]

先日、友人にお願いして借りてもらったリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」のディレクターズカット版を見ました。学部生の時に講評室で皆で見て以来です。

今改めてもう一度見てみて、ほぼ全編に渡って卓越したセンスを感じます。
人間の手によって構築された大都市と、そこに流れるガスや降りしきる雨とそこに当たる光の対比がすばらしい。

僕のお薦めはタイレル博士の部屋のシーンです。窓から入る光や蝋燭の炎がメタルの床に反射してみせるチラツキが何とも美しいシーンです。


主演はハリソン・フォード
ではなく僕的には ルトガー・ハウアー。だと思う。