admission

以前ウチに住んでいた日本人の友達に誘われて「フェイスブック教」に入信。フェイスブックとはmixiのインターナショナル版のようなもの。こちらで出会った友達はだいたい入っている。

入会手続きをしてみて、非常に能動的な友人検索システムを採用していたので驚いた。僕のHotmailのアドレス帳を勝手にスキャンしてフェイスブック内のIDに適合するものがあるかどうか教えてくれる。Maya とかAnh ThuとかPeterBodaとかおなじみの人達が検索されて出てくる。

非常に便利で頼もしいのだが、これって大丈夫なのか?

僕のアドレス帳には仕事の関係でメールした人や陸上部の渉外の雑務で連絡を取ったかなり偉い人も入っていてそういう人達も検索されている。彼らがもしフェイスブックに入っていて、僕が間違えて「友達っすよね?」的なメッセージを一括で送ってしまったとしたら、非常に気まずい。そうでなくてもアドレス帳がスキャンされたってことは、僕の交友関係だけでなく、そこに含まれる全ての人達の「メールアドレス」という個人情報が名前(僕がアドレス帳に登録しているママの名称)とともに全て向こうに渡ってしまったということになる。これって倫理的にOKなのだろうか?

SNSだからまだいいけれど、これが怪しげな宗教の会員制サイトだったりしたらそれこそ問題だ。

それから、「友人の友人」で重複しているIDも同時に検索してきて画面の右端で常に友人契約を結ぶようにお奨めしてくる。かなり強力な友人勧誘システムだ。(あとで調べたらmixiでも同様のサービスを始めたようだ)

話は少し変わるけれど、
MixiでもメールアドレスがID代わりになっていて、これとパスワードを入力することでログインする。でも、mixi空間上ではこのメールアドレスは公開されていない。だから、個人のアドレスではmixi上の人物が現実には誰なのか正確には特定されない。逆にmixi上の人物が実生活で使っているメールアドレスも特定されない。何を隠し、何を見せるかあるいは何を偽るかは完全に使う側の手にゆだねられている。つまりここでは自分のオリジナルのアドレスを使いながら全く違う架空の人物を演じることも可能なのだ。偽名や渾名で登録している人も結構いる。実際、そうやって違う自分を演じている人も少なからずいるはずだ。だからこそ引き起こされる問題もあるのだけれど…
空間的にはその匿名性がある程度確保されている故に独立性が高い空間といえるかも知れない。使う人がそれぞれ異なるサイバー空間と現実空間との距離を持っていて、それを皆が分かった上で使っているのがmixiだ。


一方でfacebookはIDとして使っているメールアドレスが完全に曝されているので、最終的な拒否権はユーザーが持っているにせよ(新しい専用アドレスを作る、など)、基本的に求められているスタンスは距離が離れた友人とコミュニケーションしたり、写真をシェアすることであり、ここではあくまで現実空間の補完物としてのサイバー空間なのだ。もちろんMixiでもそういった使い方をしている人が大半であるし普通なのだが、これは空間の質としてはかなり異なっているように思う。

だからといってどちらが良くてどちらが悪いということではなくて、僕が言いたいのはただ単に、求められるスタンスや現実との距離感が全く違っているということなのだ。