「存在論的、郵便的

久々の日記になります。
でも、細々とやってるブログだから誰も読んでないかな?
インターン行ったらブログ書かないといけないだろうし、修論のためにも今から少しづつ、書くクセを付けていかないとと反省。

先日、東浩紀の「存在論的、郵便的」を読み終わりました。
半分も理解してるかどうか自信はないけれど、それでも、すごく刺激的で面白い本でした。

この本はジャック・デリダの中期のいくつかの著作を主に扱った本です。
デリダは初期の仕事でテクストのある特定の語のパフォーマティブとコンスタティブな意味の使い分けの決定不可能性から、そのテクストが持っている主張を脱構築してしまったことで知られています。
例えば、「それは本だろうか」という文章は捉えようによって「それは本ですか」と誰かに訪ねているようにも捉えられるし、疑問文の形をとることで「これは本ではないのだ」と否定している文に捉えることも出来る。それが言葉(エクリチュール)のパフォーマティブとコンスタティブの決定不可能性です。
その後、デリダは日記とも論文とも詩とも判断できないような奇妙な著書をいくつも書くことになります。そこでは、いくつもの隠喩や言葉遊びが展開され、論理的に読解していくにはほとんど不可能なテクストが展開されます。本書は「なぜ、デリダはこのような奇妙なテクストを残したか」という問いから始まっています。

東さんは初期のデリダを「存在論否定神学)的脱構築」、中期のデリダを「郵便的脱構築」として説明しています。
存在論的な脱構築ではエクリチュール(言葉自体)がパロール(言葉の論理的な説明)の束へと還元できないことを前提としています。
そこでは、その還元不可能性はエクリチュールが論理的には説明できない「何か」を持っているためだと説明されます。それが存在論脱構築否定神学的な側面です。
一方で中期のデリダはその還元不可能性をテクストの送り手と受け手の間のコミュニケーションの問題として説明します(と東さんは解釈します。)
エクリチュールパロールの束へと還元できないのはそこに神秘的な「何か」があるからではなく、送り手と受け手の間で交わされるコミュニケーションの中の無くなってしまって届かなかった手紙、届くのが困難な手紙あるいは届いたかもしれない手紙(幽霊)として説明されます。ここで重要なのは、エクリチュールからパロールへの還元不可能性を、還元不可能なものが存在しているのではなく、コミュニケーションの問題として複数的に扱っている点です。

では、郵便あるいは手紙の比喩を使うことで一体何が可能か。
存在論的、郵便的」ではデリダの「署名 出来事 コンテクスト」へのジョン・サールの批判「差異を反復する??デリダへの反論」への再反論の「有限責任会社abc」を取り上げています。
デリダは「署名〜」の中でオースティンが言葉が持つパフォーマティブとコンスタティブの両義性に着目したのを評価した上で、その可能性を閉じてしまったことを批判しました。サールの「差異〜」はその批判として書かれたのですが、「有限〜」の中でデリダは第2期デリダ特有の言葉遊びや隠喩を多用します。
例えばデリダは「サール」という相手の名前すらも言葉遊びとして取り入れてしまいます。もし、より論理的な反論をサールに対して返せば、更なる反論が帰ってくることになります。
一方で、自分の名前すらも言葉遊びに回収されてしまったテクストを読めば、サールは不快な気持ちを抱くはずです。しかし、こうした論理的に説明困難な「意味」の語による伝達こそデリダが主張したパフォーマティブとコンスタティブの決定不可能性であり、そのような伝達方法が、第2期デリダが発見した郵便的脱構築すなわち受け手と送り手間のコミュニケーションの中に可能性を見いだした方法論だったのです。

ここまでが「存在論的郵便的」の僕なりの理解です。この正統かどうかはともかく、ここでは更に建築の領域、今僕が直面している問題へとつなげて考えたいと思います。

デリダの「届かなかった手紙」「幽霊」あるいはフロイトの「無意識」は原さんの言う「様相」や難波先生の「建築的無意識」あるいは「暗黙知」と大きく重なる概念だと思っています。

「言葉では現すことの出来ない無意識の領域」といってしまうと、それはあたかも、無意識に特権的な位置を与えてしまっているような感じがします。しかし、逆にそれは論理的な思考に対して特権的な位置を与えているが故に生じる、否定神学的な現象ではないでしょうか。

僕たちは、意識を言語化することで思考している動物です。
しかし、実際には、僕たちの思考は言葉や単語、イメージ、におい、触感といったより断片的な情報の複合的な総体であるように感じます。だからこそ、今「考えている」ことを論理的に説明するのは難しい。
逆に言えば、「言葉」は僕たちの思考を具現化する一つの媒体でしかないということです。
言葉は我々の思考を切る一つの断面でしかないのです。
そう考えてみれば、「言葉では現すことの出来ない無意識の領域」が存在するのは至極当然なことだと理解できます。

だからこそ僕たち建築家(を目指す学生)は実際の空間の縮小モデルとしての模型を作り、更にそれを論理的に説明してみることで、スタディーを重ねるのです。最初はカタチと論理がかけ離れたものだったとしても、そのようなプロセスを経ることで、意識的な部分と無意識的な部分が接合される。
難波先生の言葉を借りれば「形態のシステムから機能のシステムへのはたらきかけがめざすのは、こうした明示的な統合である」ということです。

最後にもう一つ、建築と言葉の問題に触れておきたいと思います。
最近の一つの傾向として、言葉のもつイメージの瞬発力によって建築を説明しようとする建築家が増えてきたと言われています。
例えば、藤本さんの「洞窟」がその代表例でしょう。一方で、磯崎さんや原さんのように論理で説明する建築家は少なくなってきてます。
この現象を一方では言葉で語ることの出来る建築家が少なくなったと嘆くことも出来ますが、僕は彼らの戦略がパロールの束へと還元されることのない言葉のエクリチュールとしての側面に着目した優れた戦略であると理解しています。彼らは言葉をテクストから分離することで、その「幽霊」的な部分を残したまま取り出し、建築を表現する媒体の役割を担わせている。
もし言葉が論理的な説明に還元されないものを伝達可能であるならば、この方法論は、形態と機能を対置する従来の手法とはまた異なる方向へとスタディーを駆動する原動力となるのではないでしょうか。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて