あたりまえということ、日常性

今日は卒論の発表があったので朝から学校にいた。昨日の夜から学校に泊まっただけなのだけれど。
午前中は計画系と意匠系の発表。一個人を扱ったものから建築の最近の流れについて述べたスケールの大きなものまで様々だ。
午後からエスキス。受けるかどうか迷ったけど模型も一つ作っていたので受けることにした。
単位空間としては徐々に良くなってきてはいるが全体を統合するシステムというか要するにカタチが決まらない。
エスキスでもそのことを指摘される。中間講評まであと一週間。このままだとかなりヤバい。
3時30分から構法系の卒論の発表を聞いたあと、広告代理店に電話。ようやく担当の方につながった。今後のスケジュールをメールで送信するように指示される。こちらの方はようやく動き出した。
夕食後図書館に行ったら新建築12月号が出ていたので流し読み。
僕が夏休みに施工を手伝った石上さんのテーブルが掲載されていた。スパンが9m(たぶん)もあるのに天板がめちゃくちゃ薄いアルミ製のテーブル。建てたときの応力を予め計算して天板を曲げてある。というよりも丸めてある。立ち上げた際、天板は自重と積載荷重によって水平になる。しかしこれがかなりのくせ者で、4枚に分割された天板の一枚一枚を大人10人掛かりで引き延ばし、並べなくてはならない。しかも天板と天板、天板と足は直径2mmほどのビス数本で止められているだけなので、天板がいつ戻ってこないかとハラハラした。キュレーターの五十嵐さんも徹夜で手伝ってくれていたのだけれど、Tシャツヘルメット姿でどう見てもただのオヤジにしか見えず、かなりうけた。
製図室に戻って教えてもらった何人かのブログを読む。みんなかなり詩的な文章を書いているなあ。こういうのを読んだあと改めて自分の文章を読むとホント幼稚に感じてしまう。でも、 僕は僕なりにこのままの感じで書いていこうと思います。
あたりまえのことをあたりまえの言葉であたりまえに書いていくのが僕の日記なのです。
このことは僕の設計にも言えることのような気がする。僕の設計の特徴は、その空間の日常性と身体に基づくリアリティーや「気軽さ」だと自分では思っています。(『あたりまえ』とはいったもののそこは僕なりに考えてはいるのだけれど)僕はあえて恣意的な形態操作や都市に対してカタチが主張するようなデザインはしない。だから僕は「建物」を「建築」といってしまう事自体少し抵抗を感じてしまうし僕の建築は下手をするとただの「箱」になってしまう。本当はただの箱でもいいと思っているのかもしれない。今回の設計がなかなか進まないのもここに原因があるのかも。でもそれがただの箱、人間を入れておくための容器にならないのは、そこに人の生活があるからだ。そこに人がいるからただの箱が少しだけ形を変える。周辺に都市があり、緑があり、人がいるから箱が周りに対してちょっとだけ開きだす。まだ全然うまく行ったことはないけど、僕が作りたいのはそんな建築です。
皆に刺激されて珍しく自分の建築感について語ってしまった。こんな文章、僕にとって全然あたりまえじゃない。