r.b.fuller

久しぶりにまともな内容のある更新。
現在休学中の僕は来年3月修士課程を終える予定なので、帰国後すぐ修士論文を書かねばなりません(泣)

で、僕は今のところバックミンスター・フラーについて書こうと思っています

フラーについては、2年前の夏に一度スタジオ課題「再考;バックミンスター・フラー」で皆と一緒に勉強したのですが、今思い返してみると、もっと深く突っ込めんたんじゃないかなぁ...とか、この見方はフラー分かってないよ!とか、色々と思うわけです。

もちろん「フラーやりたい」というのはそういうリベンジ的な理由だけではなく、もう少しまじめな理由もあります


(以下は先日、難波先生にお送りした所信表明の一部を少し改良したものです


『10+1のフラー特集でも難波先生が言われているように、フラーの主張は非常に技術中心主義というか、社会的/政治的問題も技術的発展によって解決出来るというようなスタンスを取っていて、文化的、歴史的な視点が欠落しています。そのため、 彼が置かれた社会的、歴史的、文化的な立ち位置はかなり見えにくいものになっているように思います


一方で、彼のピュアな技術主義は、時として彼自身の理論やデザイン自体にも 荒唐無稽な点や矛盾点を作り出しています。このことが各分野のフラーの評価を低いものにしているのだとも思うのですが、これは フラーの理論が無意識的にある特定の文化的社会的立場に依拠しているから(そして、そこに矛盾を感じる僕たちが建築を巡る全く異なる文化と価値体系に身を委ねているから)こそ生まれているのではないだろうかと考えました


例えば、19世紀鉄骨建築のなかでもクリスタルパレスに代表されるような初期の鉄骨建築はガラスの皮膜で巨大な空間を覆うものが多く、ヨーロッパの盛期モダニズム建築よりも、フラーの建築に近いように思います
一方で、バンハムが「第一機械時代の理論とデザイン」で指摘したように、ヨーロッパ近代建築に見られる、水平性や幾何学は元を正せばライトに代表されるアメリカのプレーリーハウスの水平性の影響が大きいと言えます。
ヨーロッパで生まれた鉄骨建築と技術者の軽さの美学とアメリカの純粋な科学的思想の部分とが結びついてフラーの建築として再生し、逆に、アメリカ生まれの水平性が、当時の流行だった抽象絵画の美学と結びついて、「機械美」や「古典主義」と結合することで近代建築の主流へとなっていくというのは、歴史の中にねじれを見る面白さを感じています


もう一つ、パリに滞在中に「錯乱のニューヨーク」を友人に借りて再読したのですが、改めて読んでみると、当時のニューヨークの建築家の論理や技術観がフラーのそれと非常に似ている部分を持っているということに気付かされます。例えば、錯乱のニューヨークに出てくる「針と球」の概念や「グローブタワー」はフラーの「ジオデシックドーム」の根拠づけの理論と非常に似ている部分を持っています。また、科学技術が人間の精神をもコントロールしうるというラジオシティー・ミュージックホールやコニーアイランドなどの娯楽施設の技術観・人間観もフラーのそれと通じる部分をもっているように思います

それらは20世紀初頭の同時代性であったり、「アメリカ」という国の自由な雰囲気だったり、ニューヨークのような完全に人工的なメトロポリスからくる原風景だったりするのだと思います

おそらく、彼の技術主義という思想自体が、20世紀特有の文化現象と見ることも出来るのではないでしょうか。フラー独特の技術観の中に見え隠れする、無意識の前提をサルベージすることで、近代、現代という時代をもう少し引いた視点で捉えることが出来るのではないかと考えています』


ちなみにスタジオ課題をまとめたものが「10+1 No.49」のグラビアページに掲載されています。一応僕たちの雑誌デビュー作です。(と思ったら、一緒にやっていた森田も谷口も別の雑誌で仕事をしていたのを思い出したので「僕の」ですね...)


10+1 No.49 特集=現代建築・都市問答集32

10+1 No.49 特集=現代建築・都市問答集32


今後はこのブログでも随時進行状況や、自分の考えをまとめたものをメモ的にUPしていきたいと思います。コメントしていただけると助かります。