review

スペインに来てから本を良く読むようになった。
こちらの人は時間で仕事を区切るので、僕も生活が規則正しくなってゆとりが出来たからだろう。
日本にいるとついつい遅くまでずるずるとスタディーをしてしまうので本当に良くない。(仕事熱心なのは日本人の良いところなのだが)
他に娯楽が無いというのが本当の理由のような気もするけれど。
持ってきた本の半分を既に消化してしまったので、今度マドリッドに来る人がいれば誰か本買ってきてくれるとありがたいです。
こちらに来て読んだ本の感想を簡単にアップしときます。


「写真論集成」多木浩二
岡ちゃんの机の上に置いてあったのを見つけて面白そうだったので僕も買って読んでみた。
ベンヤミンの「複製技術時代」の訳者でもある筆者が、ベンヤミンアウラと複製技術の問題系を引き継いで、複製技術的アウラを探求する論集。内容は写真一般にかんする抽象的な概念論から近代〜現代における写真家の作家論、科学写真やファッション写真の歴史とその社会的背景にかんするものなど、非常に幅広いが、その眼差しは一貫して複製技術としての写真とそれを生み出した近代という時代に向けられる。そのせいか、その対象もアジェやザンダーなど写真家自信の主観を極力排して、客観的記録的な眼差しで対象と向き合う写真家が中心となっている。その上で多木はその更に向こうにある写真家自身の「文体」に写真家の思想をあぶり出そうとし、その文体に複製技術的アウラを見る。

写真論というよりは写真を通じた文明論・都市論といった感じなので写真初心者の僕もかなり引き込まれて読んだ。多木浩二の文章は初めて読んだけど(「複製技術時代〜」は別の訳で読んだ)非常に明快で読みやすい文章。



戦闘美少女の精神分析斉藤環
東浩紀の「動物化するポストモダン」や「趣都の誕生」に代表される「おたく論」の先駆けとなった一冊。日本的空間と西洋的空間という二項対立が若干紋切り型な感があるが、「おたく論」という新たな分野の創生期に書かれた文章ということを考えると、こういう分かりやすい図式で日本の「おたく」(あるいは僕ら日本人)の持つある種の世界観を定義しておく必要があったのかも知れない。
1年半前に「動物化するポストモダン」を読んだのだけれど、両者の最大の差異はラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」に対する評価の違いにある。(これは本人達が散々言及しているので僕が今更指摘するようなことでもないのだけれど)東浩紀が現代のポストモダンの時代においては「象徴界」の力が弱体化し、「現実界」と「想像界」がダイレクトに接続されていると説くのにたいして、斉藤は人間の精神構造はそう簡単には変化しないとする。彼の説明に寄れば象徴界が弱体化したのではなく、むしろ今我々が住む現実が相対化された結果、第2、第3の現実が誕生しつつあるとする。(今ある現実すらも一種の虚構とするならば第2第3の虚構ということになるだろう)その相対化の結果、表層的には象徴界の力が衰えているように見えるだけなのだ。僕はこのラカンの図式の理解がイマイチ中途半端なので話が進むにつれていつもよく分からなくなってしまうのだがノ(もう少し基本的な所から勉強し直す必要があるのかも知れない)しかし、この図式から行くと東が良く指摘する「セカイ系」の作品群(個人的な体験と世界あるいは宇宙の命運がダイレクトに接続された物語世界をもつマンガ・アニメ・小説など)の台頭はどう説明するのだろうか?あるいは現代の人々(もしくははおたく)
のもつ精神構造と同じダイアグラムで彼らが嗜好する物語世界を語ることに無理があるのかも知れないのだけど


「空間<機能から様相へ>」原広司
去年の今頃修論を書いていた人たちが皆読んでいましたね。今更ながら僕も読みました。
70年代から80年代に書かれた小論を中心にまとめられたものだが、今もなお続く現代建築における問題を鋭く衝いている。現代の建築における問題を押さえておくのに是非読んでおくべき一冊!!と思った。世界集落からトポロジー、西洋・東洋哲学へと自在に展開する文章は幅広い興味と知識を持つ原さんの成せる技か。特に「均質空間論」「境界論」「機能から様相へ」が今日の建築と照らし合わせながら読めて共感しやすい。

今は田中純の「ミース・ファンデルローエの戦場」を読み進めています。恥ずかしながらミースについてはちゃんと勉強したことがなかったのでこれを機にどこかに作品を見に行こうかな。スペインにいるのでまずはバルセロナパビリオンでしょうか?原広司の均質空間論を読んだばかりなので、それとの読み比べも楽しみです。